公園の遊具撤去がもたらす将来への影響

誰しも子供時代を過ごした場所というのは多くの思い出が詰まっているもの。私も先月、子供時代過ごした場所に行く機会があった。

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ノスタルジックな想いを持ちながら散策していると、当時よく遊んだ公園に違和感を感じ。ふと立ち尽くす。

「何かが違う」

そう考えた時に、ふと、前に見たニュースを思い出した。

news.livedoor.com


同じだ。遊具がない。公園の使用方法について注意書きだらけ。自由な遊びは制限され携帯ゲーム機で遊ぶ子供たち。

いつ頃からだろうか?「あれが危ない」「これが危ない」と大人目線で環境を整備し、子供たち自身が危機管理能力を持たず、無菌状態で遊べるようになったのは。

また、独自で遊び方を模索せず、与えられた環境でしか遊べなくなったのはなぜなのだろう?

親目線でいえば、子供に怪我があったら。命の危険性があったら。という心配は当然であり、考えられる危険は極力排除すべきと考えるだろう。それが親心と言うものだ。

しかし、大人が環境を整えれば整えるほど、子供たちは危険を察知しないまま育ってしまう。どこまでが良くてどこからが危険なのか。それらについて遊びを通じ、時に痛みを伴いながら、たくましく成長していくというのは時代錯誤なのか?

「怪我をしたらどうするんだ」「責任とれるのか」これは今の時代、必ずついてまわる。

でも、私たちの幼少期。そんな事を言う大人はごく少数だったのではないだろうか?ブランコで立ちこぎや二人乗りなどで怪我をしたら「気をつけろ!二度とするな!」と怒られ、学校で先生にビンタをされたと言えば「何したんだ!」と、こちらがどなられる。時には公園で見知らぬ地域の子供たちと遊ぶこともあれば、ケンカになる事もある。ケンカに負けて帰ってくれば「負けて帰ってくるな!」と怒られ子供は号泣する。

一見、ぶっきらぼうであるが子供社会を尊重し大人が出張るところではないと熟知している。子供を大切に想い、護ってはいるが護り方が違うのだ。

これらの対応の違いは、基本的に起きた事象ありきではなく「子供の未熟さと成長経験」を前提として織り込んでいる点が大きい。危ない事もあるだろう。怪我をする事もあるだろう。痛い経験をする事もあるだろう。だが、それも成長過程の経験であるということを認識しているのが透けて見える。

成長の先にある子供たちの未来。その先には必ず社会という大きな環境がある。これは無菌状態ではない。あらゆる危険があり、誰も自分の生きやすい環境を整えてくれるわけではないのだ。

無論、子供時代に排除すべき危険もある。実際に遊具による死亡事故もあるのも事実であり改良の余地は多々あるだろう。だが、それを一律排除という形にしてしまうことはどうなのか?

遊びの中から危険を学ぶ事。コミュニティを形成する事。それらを経験する機会を与えてくれる公園の楽しさや遊びを排除した先、子供たちにはどんな未来が待っているのだろう。

そんなことを感じた春先のできごとだった。